縁側の 「逆風って気持ちいい!」

 縁側です、よろしく。首里城周辺をうろついております(^^♪ 言いたい放題させていただくブログです。酒飲みで常識もへったくれもない、常軌を逸した者が綴るブログですから、ムキにならずにお読みください。 ご意見やご批判などはこちら→samy_0363@ezweb.ne.jp

カテゴリ: 教育

 
 朝から飲んでて、さっき目覚めた(T_T)/~~~
 
 何気なく琉球新報のコラムに目を通してたらまたバカなこと書いてるので紹介したい。
 
 <金口木舌>歌う自由、歌わない自由
 
 「卒業式で教員全員をビデオ撮影する人がいる。報道関係者なのか」。1999年の国旗国歌法の施行後、那覇市内の県立高校の校長からこんな電話があったことを記憶している
 ▼職員が君が代を歌っているか確かめている様子だという。次の入学式を待ったが、撮影者は現れなかった。そんな古い話を思い出したのは、大阪府教育委員会の「通達」がきっかけだ
 ▼入学・卒業式で教職員が国歌斉唱しているか、管理職が確認するよう府教委が全府立学校に求めた。根拠は公立学校の教職員に日の丸掲揚、君が代斉唱を義務付けた大阪府条例だ
 ▼管理職による教師の監視強化とは尋常ではない。「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」という憲法の条文が、大阪府条例の前では色あせて見える
 ▼国旗国歌法を審議した99年7月の参院本会議で小渕恵三首相(当時)は「(掲揚、斉唱とも)義務付けは考えておりません」と答えている。法の制定過程を振り返ってみても、大阪の動きは突出し、異様だ
 ▼大阪府教育長のブログを読むと、「自分で“思考”する教育(正解が一つでない問題に触れる機会を増やす教育)」が理想とある。しかし、その理想と教師への監視強化は不釣り合いではないか。生徒に「思想の自由より権力への従属」が大切と誤ったメッセージを送り、晴れやかな門出を汚す愚は避けたい。
 

 
 これを読んで、琉球新報のコラム書いてる人って、「ホントは何も知らない人」、つまり、縁側みたいなひとなんじゃねーの?って思ってしまいました。
 
 >▼管理職による教師の監視強化とは尋常ではない。「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」という憲法の条文が、大阪府条例の前では色あせて見える
 
   :なるほど、思想及び良心の自由から、歌わなくてもいいんだ、と言いたい訳だ。アホか!思想の自由に抵触するってのは、「歌いたくないという考え方自体許さん」とするもの。そこまでは言ってないんだよ、条例では。そりゃそうだよ、そこまでいうと憲法に抵触する。なんの問題もない条例だよ。それにね、監視強化ってさ、式典で国歌斉唱時に、教職員ひとりひとりに小型ボイスレコーダーを携帯させるなんて言ってないよな。あるいは、ひとりひとりに監視員を配置するわけでもねーだろよ。「通達」でしょ?そりゃあ、あーた、司会者が「国歌斉唱」って言ってんのに教職員が起立しない、歌わないじゃ式典ぶち壊しだし、それを子供たちに見せるわけにはいかねーだろよ、革マル派のウンコたれ!
 
 
 > ▼国旗国歌法を審議した99年7月の参院本会議で小渕恵三首相(当時)は「(掲揚、斉唱とも)義務付けは考えておりません」と答えている。法の制定過程を振り返ってみても、大阪の動きは突出し、異様だ
 
   :今回の通達は教職員に対してであって、式典出席者一同つまり保護者の方や子供たちは通達の対象外でしょう。なにが、「大阪の動きは異様だ」だよ。このコラムの異様さがわからねーか?って書いた本人はわかるわきゃねぇわな(T_T)/~~~
 
 >▼大阪府教育長のブログを読むと、「自分で“思考”する教育(正解が一つでない問題に触れる機会を増やす教育)」が理想とある。しかし、その理想と教師への監視強化は不釣り合いではないか。
 
 :あのね、ホント琉球新報って会社はバカしかいねーのかよ。今回の通達は大阪府議会で法制化した条例に基づくのよ。府民の代表が決めた、つまり府民が決めたことが形骸化しちゃったらだめじゃん。だからその条例を受けて、行政側、教育行政のトップである大阪府教育長の名で府立の学校へ通達を出した、ということだ。教育長の教育に対する姿勢等とは何の関係もありましぇん。なにが不釣合いだ、ボケ!不釣合いなのは、おめーの職務と職能なんだよ、気づけドアホ!
 
 >生徒に「思想の自由より権力への従属」が大切と誤ったメッセージを送り、晴れやかな門出を汚す愚は避けたい。
 
  :ははははははははははは、もう最後のこの言葉でギャグコラム認定!でもさ、ホントはこう書きたかったんだろ?
 
 生徒に「みんなで決めたルールよりアナーキズムへの思慕」が大切と正しいメッセージを送り、晴れやかな門出を祝いたい。(T_T)/~~~
 

 
 沖縄人向けです。
 
 最近、「しまくとぅば」について、琉球新報の社説登場回数がやたら多い。
 
     しまくとぅば調査 危機感共有し復興を図れ 9月15日
 
     しまくとぅばの日 復興への歩みを強めよう 9月18日
 
     しまくとぅば大会 県の本気度が問われる  9月19日
 
 
 縁側は、結論から言うと、「無駄」。
 
 いろいろと、それこそ歴史的な背景まで遡ることになるのだが、言葉の復活について言えば、「しまくとぅばのようなもの」としてなら「復活」は可能でしょう。が、沖縄人が日常使用していた「うちなーぐち」を「復活」させるのは無理。できません。捨てたから。
 
 この時間は、アルコール摂取のお時間なので、多くは書けないが、復活は無理です。「みたいなもの」や「沖縄新語」ならできるでしょう。やればいい。縁側とはまったく関係のない話だからな。
 
 ちなみに言うと、縁側は40代で、同年代はほとんど方言を話さない。が縁側は首里の出なので、リスニングはほぼできるし、べしゃりもそこそこできる。けれど・・・・・、実家と友人の前以外では使いません。なぜかは至極真っ当なものはある。けどコメントに対してなら答えますが、今は飲んでるので長くなるのはきつい(T_T)/~~~
 
 もう一度言っとく。「しまくとぅば」は復活しません。
 
 
 

 私のところには今、受験生がいる。そこで、担任の先生と進路について話し合うのだが、その基準となるのが、内申点。もちろん、学力も考慮しながらではあるのだが、なんでも、沖縄県内の県立高校は、ほとんどで内申点50、受験本番での点数50ということになっているらしい。全国的にはどうなのか知らないが、これはどういうことなのか・・。
 
 例えば、県内で進学校として有名なある高校でようやく内申点40、当日の試験60であるという。その他はほぼ50:50ということらしい。
 
 ならば、その内申点の内容はというと、これがまたこまかく数値化されたものを積み上げていく方式なんだな。教科ごとに。
 
 例えば、国語。私が愕然としたのが、「校内図書室の利用状況」。(T_T)/~~~
 
 つまり、校内の図書室で本を借りた冊数が多い子は内申点が高くなり、借りてない子は低くなるというのだ。これは国語教科の先生に直接聞いたので間違いない。
 
 さらに国語では「読み解く力」や「発言力」という項目もある。呆れて物も言えないのだが、「読み解く力」は定期考査で十分だろう。それとは別になぜ教師の主観を入れなければならない?「定期考査では高得点だが、私の教師としての勘ではこの子は読み解く力が足りない」とでも言うのか。また、「発言力」も差別以外の何物でもない。物怖じせずに正誤関係なく発言する子はいる。が、逆に、正答を導き出しても控えめに発言を控える子もいる。これが「国語」の成績に影響するという。なぜだ?
 
 体育などでは、「率先して活動できる」とかもある。どういう意味だ?理科では、実験などでの「協調性」も求められている(T_T)/~~~。
 
 どうにか数学は、数学だけは、ほぼ「定期考査」の点数での評価になっている。しかし、それとて「授業中の態度」という教師の絶対的主観から逃れることはできない。
 
 言いたいことは、「教員は忙しい」という言い訳で、学校内での様々な問題に対応できずにいて、教員増を叫び、待遇改善を要求する日教組のような団体がいる中で、日々の経過観察が必要な評価項目を見直す話が聞こえてこないのはどういうことだ?その評価項目を40人のクラス全員、教科専門の教師なら数百人にもなるのだが、一人ひとり評価できるのか?できるわけがない。日々の「授業態度」を把握するのは無理だろーよ。しかし教組はそこには触れないのだよ。なぜか・・。
 
 実は、そこが彼ら教員にとっての「生命線」でもあるからだ。教師も教組もそれに関しては恐らく一致した見解ではないだろうか。つまり、教師が教師としてあるための「安全保障」なんだな。
 
 例えば私立の教師の勤務評価はというと、これはもうはっきりしている。合格率や、難関校への合格などであり、塾も同じ。それ以外のことに親は関心がない。
 
 では公立の教師の勤務評価はというと、これがわからない。一説には「組合関係者との付き合い」と「教育委員会との付き合い」が上手いかどうかというものもあるらしい。また、部活動の指導で県大会や全国大会へ生徒を導いたというのもある。沖縄では体育教師が校長になるスピードが早いと言われているが、頷ける話だ。
 
 公立の中学校の教師にとって、内申書というのは諸権利を守るための必須アイテムということ。それを盾にしてどうにかこうにか「教師」としての面目を保っている。公立高校を目指す生徒の中には、評価対象者としての自分を「創り上げる」子もいるらしい。進学先が私立で調査書や内申書のいらないところを希望してる子は、教師の「お眼がね」など気にせず、子供らしくいられるわけだ。だから左翼教師は「私立」を憎む。そして私立との学力差を教師の差ではなく親の差とみなして逃げる。教組の連中の思考とはそのようなもんだ。
 
 「管理教育」を教組は嫌う。しかし彼らのいう管理教育とは、「国家行政の教育に対する不当な介入」を指す。そして自らは、子供たちに対して教師に都合の良い子を高評価する「管理教育」を徹底させてきたし、これからもそうするのだろう(T_T)/~~~
 
 まだまだ未熟な子供を内申という獣じみた書類で仕分けして、可能性の芽を摘むことに何の意味もない。むしろ徹底的に当日のペーパーテストを重視して、その内容を改善していけばいいのだ。教師が教師の諸権利を守るための内申書で子供の進路を左右される危険は排除しなければならない。とするなら、免許更新制度もいいが、最も重要な現場での「授業中」の問題に目を向ける必要があるだろう。
 
 
 過日の中国漁船事件に対応した官僚や政府の連中も「内申点」と向き合い「いい子」を演じていたのかもしれん。そんな子が将来、外交で他国の「内申と関係なく育ってきた愛国者」と対峙できるはずはない。また、大阪地検の検事も「いい子」だったのだろう。ミスは「先生に叱られる」→「評価が下がる」→「もうだめだ_(._.)_」なのかな(T_T)/~~~
 
 
 

今朝の琉球新報社説です。
 
  奨学金拡充 教育格差は許されない
 
 日本学生支援機構が大学生らに貸与する無利子奨学金を拡充する方針を決めた。基準を満たす学生なら申請者全員が受けられるようにする方針だ。必要な措置であり、正しい方向と評価したい。
 2010年度の無利子奨学金貸与者は約35万人いる。だが枠の不足で毎年2万6千人前後が奨学金を受けられなかった。文部科学省は今回、その2万6千人分の枠の増額を11年度概算要求に盛り込んだ。
 教育の機会はすべての人に保障されるべきだ。その意味で、今回の方針は理にかなっている。
 高校無償化も、「機会保障」という理念では同一線上にある。「コンクリートより人」という昨年の民主党マニフェストの理念にも合致しよう。予算査定が焦点となるが、財政事情が厳しいとはいえ、何を優先すべきか、政権の出発点に戻って判断すべきだ。
 そもそも日本は教育予算の乏しさが批判されてきた。教育機関への公的財政支出をGDP(国内総生産)比で見ると、日本は5・8%(06年)。先進国と同義語とも言えるOECD(経済協力開発機構)加盟国で見ると、28カ国中、下から2番目だ。高等教育に限ると最下位である。
 教育支出のうち私費で負担している割合を見ても、加盟国平均は27・4%にすぎないが、日本は67・8%と突出している。3分の2を私費で負担する形であり、これでは低所得者の家庭では進学が困難だ。教育格差も甚だしい。
 教育格差が許されないのは、人道上の理由からだけではない。若者が資金不足ゆえに高等教育を受けられず、可能性を伸ばせないのでは、社会全体の損失になるからだ。その意味で、今回の方針は社会全体にとっても適切と言えよう。
 充実すべきは機会保障だけではない。小学校1学級当たりの児童・生徒数はOECD平均の1・3倍、中学は1・4倍だ。中央教育審議会が先月、小中学校の少人数学級化を提言したが、むしろ遅すぎるくらいだ。
 過去10年間、先進各国が政策的に教育予算を増やす中、日本だけは増やさなかった。米国は教員以外のスタッフが教職員全体の46%もいるのに、日本は24%にとどまる。日本の教員は忙しすぎる。これでは教育の質にも影響しよう。
 資源小国・人材立国なら教育予算増は当然だ。教育の質や機会の保障に大胆な取り組みを望みたい。(引用終わり)
 
 

 
 まぁ、言いたいことはわかるんだけど、何かイマイチピンとこないんだよね。
 
書きたいこと書いたらあまりにも文字数が多くなりましたので、全部消去しました。でも、
 
なんか納得いきません。外国と比べる必要があるのか?とか、無利息というのにも噛み付きたい(T_T)/~~~
 
教育っていえば何でも通るようなのは気に入らないね。
 
 
 
 
 
 

国の歳出を減らすために、無駄を削るために事業仕分けというものをやっている。あまり成果がでないようだが、まぁ無理もない。
 
 三権分立というけれど、「お互いマスコミや国民に叩かれないようにうまくやっていきましょう」という暗黙の了解があるのだから。
 
 意識的ではなくとも、無意識に自分のところの縄張りを守ろうとするのはある意味当然といえるから。
 
 例えば、個人や団体が有力議員のところに陳情に行く。そこで、角栄ばりに「よっしゃ、よっしゃ」となる。それを該当する省庁に持っていく。はい、公益法人の出来上がり(T_T)/~~~
 
 実は、みんなでツルんでるんだよ。だから増えることは容易いが、減らすことは難しい。「公益法人はすべて潰す、でなきゃ国そのものが潰れちまう」で済む話なのにね。
 
  我々は7歳になると必ず小学校に通うことが当たり前になっているが、そのほとんどが公立である。実は、そここそ事業仕分けの対象なのだが、そこには手を付けようとは考えない。
 
 よく考えると、そこは日本国民全ての子弟が通うことになるものすごく「おいしい市場」なわけです。そこを官僚が画一的な、北海道から沖縄までまったく同じ内容の授業を同じ時間帯に行っている。
 
 明治の初めに、富国強兵政策の一環として教育令により全国に小学校ができたのですが、その当時はそれでよかった。識字率もあがり、恐らく世界最高の教育レベルであっただろう。
 
 でも、現代のように価値の多様化、娯楽の氾濫、ネットの普及による情報が得やすい、など様々な環境の変化の中で、子供たちの教育のみが国家主義的に画一的手法を維持することに大いに疑問を感じる。(なんか左翼的か?)
 
 憲法26条にはこうある。
 
 :すべての国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、等しく教育を受ける権利を有する。すべての国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、これを無償とする。
 
 憲法では公立・私立の別には言及していない。
 
 私は、公立学校を民営化することも一つの案だと思う。急進的な改革は教育の場にそぐわないし、なんだか左翼的で気が進まないので、学校そのものの民営化はちょっとできない。第一、憲法の改正までやらなきゃならなくなるだろうから。
 
 教師の側、つまりハードはそのまま市町村の教育委員会が運営してもらい、教員であるソフトの部分をまるごと民間に委託するというもの。
 
 各都道府県に数ヶ所モデル校として民営化してみる。モデルですから教育委員会の指導も仰ぐが、基本的には受託者である民間が主導する。
 
 このモデル校は全国学テに必ず参加させ、その成果を見る。もちろん、不登校児の数や親の満足度など、多面的に観察して成果を確認していく。成果ありなら増やしていく。教員免許なんていらねーし、採用も各々の学校と教育委員会に一任する。なんか最近は校長を民間からとかやってるみたいだけど、どーなのかね。文科省の手の平という感じだけど・・。
 
 「この案って私立ってことじゃね?」という声が聞こえてきそうですが、正に私立化を目指すことが求められていると思います。が、憲法の文言に「義務教育は無償」とあるんです。商売として成立させることができなければ民営化できないし、また、授業料が払えない家庭も多くあるのも事実。なので小中の完全民営化はしにくいんですよね。
 
 払えない世帯には免除制度を設けるということもあるかもしれんが、基準を定めるにもちょっとどーなのか・・・。なんか少子化対策にも逆行していそうだし・・。義務というならやっぱり無償にすべきだろうと思います。
 
 ホントは完全民営化して、日教組潰したいんですが・・。
 
 ニューヨークヤンキースのオーナーで最近亡くなられたスタインブレナー氏は「金も出すが口も出す」といわれていた。それでも彼は、ヤンキースを愛し、ヤンキースのために金も口も出してきた。
 
 文部科学省が国を愛し、国の将来のために国民の子弟の教育に対して金も出すが口も出すならよい。しかし、国に対して忠誠心があるのかないのかわからないんだな。教育圧力団体(日教組)と馴れ合う政治家らとこれまた馴れ合う現在の文部科学省が支配する学校教育が将来の日本にとって良いとは思えないんだよね。
 
 よって、教員の民間委託を主張します。
 
 追記:公務員の教員が生き残りを主張するのなら、「組合」の影響力を学校内から排除する自浄努力をすればよい。
 

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