縁側の 「逆風って気持ちいい!」

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2009年12月

今朝の琉球新報のコラム「金口木舌」を読んで少し違和感を感じたのでエントリーする。
 
新聞のコラムというのは、書き手の日常感じている事柄や、読んだ書物などから政治・経済・教育・行政など多岐に渡って言及・評論する内容の記事である。字数がそう多くなく、小難しい言葉の羅列である「社説」と違い比較的簡易な言葉を用いている。私にとっては読みやすいということもあり、一等最初に読んでいる。
 
この社説とは趣を異にするコラム。なんでもかんでも書き手の自由というわけではない。社説と同じく、社風というか社論と真っ向から対立する意見は書かない。いや書けないと言ったほうがよいだろう。よって、意見の対立する者や事象などには社説ほどではないにしろ、やんわり批判的な記事になる。そこで今朝のコラム。
 
琉球新報 金口木舌より引用
 
 沖縄戦は激烈な地上戦として知られるが海も戦場だった。日本の若者3千人が航空機による特攻で戦死、米軍は沖縄戦の戦死者の4割を洋上で失った。近海では輸送船が沈められ疎開学童や多くの民間人が犠牲になった。
 県公文書館で「海の沖縄戦」をテーマにした企画展が開かれている。米海軍資料から知られざる海の戦争の実態が浮かび上がる。
 米軍は南西諸島海域を「”丸”の死体置き場(Maru Morgue)」と呼んだ。日本の船舶に「ー丸」という名が付いていたからだ。米潜水艦はオオカミのように群れをなし、この海域を航行する船舶を次々と狙った。
 ところで、日米が双方を仮想敵国としたのは日露戦争直後のことだ。司馬遼太郎さんの小説「坂の上の雲」に登場する海軍参謀秋山真之は、米海軍戦略家アルフレッド・T・マハンの薫陶を受けてロシア艦隊を破り日本の海軍力を世界に示した。一方、フィリピン、グアムを奪い太平洋に進出した米国は、いずれマハンの教え子たちとの激突を予想したわけだ。
 そして双方の戦争計画は南西諸島近海が決定的な海戦場になると想定した。司馬さんが描いた若き明治国家は琉球、朝鮮を版図に組み込み帝国主義の道を歩む。
 昭和になって日米開戦は現実になった。最終局面で民間人を含む多大な犠牲を払った「海の沖縄戦」があったことを忘れてはならない。(引用おわり)
 
 沖縄戦は地上戦だけではない、海戦もあり、多くの犠牲者を出したんだ、ということを記しているのだが、まぁ、なんてことはないフツーのコラムではある。
 
私は、「坂の上の雲」を読んだことはない。ないが、わざわざ黒字にした部分に琉球新報の社論と臭いが違うように感じる。司馬の「坂の上の雲」の引用なのだが、コラムで引用する場合、その書物に対して肯定的に見ているケースが多いと思うのだが、そうであるならば、黒字部分は社論と明らかに異なった見方である。
 
琉球新報の沖縄戦に関する見方といえば「日本軍の存在が沖縄戦を引き起こした」である。米国から見た大陸進出への要所としての沖縄・南西諸島という視点は排除し、帝国日本の「捨て石としての沖縄」をこの数十年喧伝してきたはずだ。その「社論」からすれば、
 
 >フィリピン、グアムを奪い太平洋に進出した米国は、いずれマハンの教え子たちとの激突を予想したわけだ。
 そして双方の戦争計画は南西諸島近海が決定的な海戦場になると想定した。
 
という件は、明らかに異論である。もちろん司馬の史観であるということなのだろうが、上述したように、コラムは新聞社の社論に沿ったカタチで記される。このような日米開戦は歴史的宿命であったかのような言説が、司馬の書物に基づくものだとするならば、その「司馬史観」を否定的に捉えることもせず、日本軍の悪行を探し出して追及することもせず、ただ「海の沖縄戦」もあったんだ、というのは、琉球新報らしくない。きっとこのコラムニスト氏は、上司に大目玉くらったのではないだろうか。「なぜ、日本軍の悪行も織り交ぜて書かない!」なんて感じで・・(T_T)/~~~
 
だって、これ読んだ中学生や高校生が、ともすると「沖縄戦って宿命的というか運命的な戦いだったんだね」なんて解したらそりゃあ都合悪いでしょうに。オタクらには。ねぇ。

私の住む地域の小学校や中学校では、先生方が子供を呼ぶのに苗字ではなく、名前を使っている。ほぼすべての教師が苗字を使わず、名前で呼んでいる。それも、男の子なら「○○君」や、女の子なら「○○さん」ではなく、男女の別なく「○○」と名前だけで呼んでいる。呼び捨てということ。
 
教育委員会に聞いてみたところ、教委からの指導ではない、とのこと。教委の職員いわく、「親しみを込めて名前で呼んでるんでしょう」と言ってたが、確かにそのような意味でのことだとは思う。
 
私の子供時代には、ほぼすべての教師が苗字で呼んでいた。いつ頃から変わってしまったのか。当事者である学校の教師に聞いても、「最近は名前で呼ぶのが当たり前になってますね~」とのこと。私にはそれが強烈な違和感となって残ってしまう。
 
私の住む首里の街(というほどのものではないが・・)は、他の地域と比較しても、昔ながらの集落が残っているほうで、私の子供の頃などは、小学校で、先生が親と同級生で、「縁側君、君はホント落ち着きがないなー。君の親父さんの子供の頃といっしょだな」などと、からかわれたりしたものだ。学校と家庭、教師と保護者が意識せずに関係を持っていた。ところが、現在では生まれ育ったところで就職して生活することが当たり前の時代ではない。よって、その地域の顔ぶれも常に変化しており、隣近所の付き合い、というものも、消滅してきている。
 
学校での子供の呼び方だが、結論から言うと、「苗字」で呼ぶほうが良いと考える。それぞれの「家」の名で呼ぶほうが子供には良いのではないか。もちろん上記の意味合いで名前で呼ぶほうが良いと考える者もいていいのはいいんだが・・。
 
「家名」を背負って学校に行く、などと大げさなものではないが、家名で呼ばれることにより、無意識に自分以外の家族も背負って行動をとるようになるのではないかと思うのです。もちろんすべての者に当てはまるとは考えていないが・・。
 
中空に浮く個人としてではなく、他者(家族)との関わりを自意識下に収めつつ行動するようになるのではないか。旅の恥は掻き捨て、ではないが、365日掻き捨てられたら、たまったものではない。何の根拠もない、私の勝手な推測ではあるのだが(ーー;)
 
最近の子供たちを見ていると、「家の匂い」がしないんだな。なんか、ポッと湧いて出てきた小動物を髣髴とさせる子もいる。「家でどんな生活してんだろう?」と思わず心配してしまうような小学生もいる。「どこどこ家のだれそれ」で、わかった私の子供の頃のほうが、制約は多いが、安全だったのは間違いない。非行にはしる子も少なかったと思う、今よりは。
 
確か、教職員組合が強くなり、教師は自家の近所の学校への赴任を拒否できるという。地域の活動などに駆り出されることで、プライベートな時間が潰されることへ警戒してのことだろうが。
 
なんか何を言ってるのか意味不明になってきたが、(いつものこと)とにかく結としては、学校などでは「苗字」で呼びなさい!ということでした。<(_ _)>

小沢一郎の訪韓で天皇陛下の御訪韓の話題が出たようだが、誰が出したんだ?出す必要のない事だろーよ。はっきりしてるのは、そのことを言い出す連中は天皇に過去の植民地支配に対し謝罪させることを企図しているということ。
 
そんなこと許してはいけない。過去の歴史観については、見方が様々であり、事あるごとに植民地支配に言及する国に陛下をお連れするわけにはいかない。沖縄を御訪問なさるだけでも一苦労なのだ。それが韓国となると不測の事態が起こらないとはいえない。また、韓国で「植民地支配」についてお言葉があるのは間違いなく、受け取りようによっては、村山談話を補強することに繋がりかねない。歴史観の大きな違いと、安全ではないという二点からも御訪韓には反対である。
 
天皇のお后に朝鮮半島出身の方が過去におられたことは承知しているし、過去の両国は、ここ100年は我が国のほうが、国際社会の中で常に上位にありはするものの、過去長きにわたり朝鮮半島から様々な物が渡海して我が国の文化の発展に寄与したことは事実である。
 
よって、今上陛下におかれては、両国の友好親善に少しでも役立てば、のお気持ちから御訪韓なさることに前向きであられるかもしれない。しかし、それでも御訪韓の政治利用という側面は否めないし、というよりも小沢一郎が韓国で、外国人参政権問題に言及したことで、政治的な企図と切り離すことは最早できない。韓国の李明博からすれば、天皇の訪問は、願ったり叶ったりだろう。自政権中に天皇をお招きできるとなれば、ある程度外交の場で譲歩しても、なお余りあるものがあるはずだ。
 
天皇を御守護することは我々国民の一等大事な義務であるという観点から見ても、御訪韓には慎重にならねばならない。はっきり言うと断るべきだろう。
 
もっとも、御訪韓自体を積極的に政治利用しようとしている者らは、韓国政府というより我が国の政権与党なのだから、いやはやなんとも・・・。

私の同僚が夫婦喧嘩したという。理由を聞いて笑ってしまった。
 
水洗浄機つき便器。だいぶ普及してるようだが、喧嘩の原因はその使用方法らしい。少々というかだいぶ汚い話で恐縮だが我慢してくれ。
 
同僚の夫は、用を足した刹那、「洗浄」ボタンを押し、尻を洗浄するらしい。その後、ペーパーで拭く。
 
一方、同僚のカミさんは、いったんペーパーで拭き取ってから「洗浄」ボタンを押し、洗浄した後再びペーパーで拭き取る。
 
そのカミさんに言わせれば、用を足した直後に水洗浄すると、水がでるノズルに汚物が付着しやすいからダメとのこと。夫の側に言わせれば、用足し後すぐに洗浄したほーが気持ちいいし、再び便意をもよおすこともあるらしく、そのほーが健康的だ!との主張。また、カミさんの方法だとペーパーの使用量が増し不経済だという。
 
正しい使用手順というのがどーなのか私にもわからないが、皆さんはどーだろうか。ちなみに私の使用手順については割愛させていただく。
 
それにしても、「個室」の中でのことで夫婦喧嘩とは・・愛犬もうんざりといったところだろう(T_T)/~~~
 

昨日の沖縄タイムスより
 

体罰 中2が一時重体/浦添 教諭顔踏みつけ 市教委が謝罪

 


 【浦添】浦添市内の中学校の40代の男性教諭から指導を超える「体罰」を受けたとして、暴行を受けた同校2年の男子生徒の保護者が警察に被害届を出していたことが10日、分かった。指導の際、教諭が生徒の脇腹をけり、倒れたところを靴底で顔を踏みつけたという。生徒の被害は頭部と胸部打撲と診断されたが、その後、自宅で就寝中に一時意識不明に陥ったという。同日の市議会冒頭、西原廣美市教育長が問題を公表した上で「明らかに体罰であり人権を踏みにじる行為。被害生徒、保護者に心からおわび申し上げる」と陳謝した。

 学校によると、問題が起きたのは8日。中学生の非行の連絡があり、男性教諭ら2人で学校近くの墓地に駆けつけた。たむろしていた男子生徒を含む9人の同校生徒の周りにたばこの吸い殻があったという。

 教諭が喫煙の有無を問いただしたところ、認めなかったため持ち物を見せるよう指示。生徒がかばんを開こうとしゃがみ込んだところ、教諭が体罰に及んだという。

 学校側は翌朝、保護者の訴えで問題を把握。教諭の行為は指導とは一線を画すとして、校長と教諭らが生徒と両親に謝罪、市教委にも報告した。保護者はその日の午後、医師の診断書などを携え浦添署に被害届を提出。同署が傷害容疑で調べている。

 学校によると、教諭は生徒指導が担当で生徒とのかかわりは1年のころから。8日も午前中に別の件で指導し帰宅するよう促していた。教諭は体罰を認め陳謝した上で、「(生徒が)どうして分かってくれないのかとの思いがあった」と話しているという。

 西原教育長ら市教委は報告を受けた日の午後、就寝中に意識不明となり搬送された病院で生徒と保護者に謝罪。学校長も同席した。

 校長は沖縄タイムスの取材に「あるまじき行為で、十分反省し二度と起こらないよう学校総ぐるみで取り組みたい」と話した。 (引用おわり)

 
まぁ、昔からよくある話ではある。教師も殴るという行為には、自身のプライベートな時間も投げ打って事に当たる「覚悟」がワンパッケージとして付いていなきゃならないということに対する「自覚」が足りないのではないか。
 
ちなみに私が中学生の頃の先生方は「殴る」ことは正当だと思っていたはずだ。テメェのズボンのベルトはずして、皮の部分を持ち、バックルを生徒の顔面に・・痛いどころではない。眼から出血してたな。明らかな犯罪なのだが、現在アパート数件持って快適な老後を送っているというからね(T_T)/~~~
 
私なんか、廊下に立たされているときに、カンケーない別の先生が金属バット持って襲ってきたこともある(おいおい)。幸い、担当教師が、止めてくれたので死ななくてすんだが(眼がイッてたもん)。
 
現在とある自治体の教育長さまが現役の教師だった頃、生徒に手を上げていたのを幾度となく目撃しているもんね。
 
上の記事にあるような「非行少年」に対する指導なんてやる必要ないと縁側は考える。学校運営の妨げになる生徒は排除するべきなの。だから、校外での生徒指導なんてもってのほかです。そこで殴る蹴るしたら、傷害事件なのは当然です。
 
この問題って実は根が深いんだよね。市民レベルで「学校とは何か?」の基本的な認識にばらつきが多すぎるんだよ。イジメで死者がでたときに、「誰のせい?」ということになるのもそこに根本原因がある。
 
もーそろそろ教師をただのサラリーマンと位置付けて、何も期待しない方向へ舵を切ってもいいんじゃねーのか。つまり、専門の教科を教えるだけの「教員」でいいんじゃねーのか?ということ。躾や、道徳なんてのは、「保護者の責任で!」となるほーが望ましいと思うぞ。学校は、小学校までは「国語、算数、理科、社会、に体操、美・技術、音楽」でいい。中学からは、外国語入れりゃいい。もうとにかく、あと余計なことは一切学校の関知するところではなくするわけ。学校内で問題行動するよーな生徒は、即、保護者に引き取りにきてもらうんだよ。保護者が拒否れば、「警察」にきてもらえばいい。それこそが、真の「義務教育」なんだよ。そーなれば、「愛情あるがゆえ殴った」なんて言い訳はできなくなる、完全に。
 
安倍政権時に教育基本法の改正があり、保守、右派から賞賛された。それに対して、日教組などは危機感を持ち、「教育の国家統制が進む」として反対の声があがったが、「美しい国を想う国民」、「道徳心にあふれた国民」、を育てること、それを学校という枠の中で行うことがそもそも間違いではないのか。そこまで過度に現在の学校に期待するから、その反動で日教組などのインチキ集団がのさばることになるんだよ。彼らに「突っ込みどころ」を与えてるよーなもんなんだよ。つまり「餌」をね。
 
学校が上のようなことになれば、必ず「学校不要論」が俎上に載ってくる。しめたものだよ。そーなることで、「学校とは何か?」が本格的に議論されるんだよ。
 
これは、前エントリーの給食費未納問題とも密接に絡み合うことなので、あえてエントリーしました。

 

 

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