沖縄における左翼組織や、反日団体が用いる言葉に「琉球処分」がある。最近では「薩摩侵攻400年」ということを根拠に、日本からの離反を叫ぶ変人の集会もあるようだ。
 
普天間問題についても、辺野古移設で日米が合意したことを受けて、「現代の琉球処分」と言う県内首長(名護市だったと思う)もいる。
 
琉球処分については、歴史学の専門家が研究題材としている者も少なからずおり、いくつかの見方があるようだが、有名なところでは、沖縄学の父といわれる伊波普猷(いはふゆう)のいうところの「日本と琉球は同祖であり、琉球処分は、奴隷解放と国家統一」であるというのが、通説としているようだ。
 
たしかに民族派の方や、右翼方面の方から見れば、その解釈のほうがいいのだろうから、新井白石の著した文献を引用するし、第一、そのほうが「単一民族」を言うときに便利ですからね。
 
遺伝子的にはまったく同じ祖先であると研究結果が報告されているようだからそうなのだろう。しかしそれが国を形成する明治維新の頃の元勲の認識としてあったかは微妙なところだろう。
 
最近、小林よしのり氏の「沖縄論」を読んだ。面白かったのだが、琉球処分については少しだけ違和感があった。
 
その前に沖縄での解釈として、日琉同祖は琉球王国時代の羽地朝秀という政治家が「中山世鑑」という歴史書の中で、琉球で最初に王となった舜天(しゅんてん)は源為朝の子であるとしたことに端を発しているようだ。現在の浦添市にその城跡が残っている。余談だが浦添には牧港(まきみなと)という海に面した地があるのだが、かなり古くから港はあったようで、為朝の妻である舜天の母親が、為朝の帰りを待つ港ということで、「まつみなと」から牧港になったとするのが通説である。
 
研究者の中には、その浦添が琉球の都で、後に首里に遷都したとする見方もあるし、それ以外にも説があるとのこと。なにぶん戦争で多くの文献を失っているので正史を辿ることは歴史の専門家でも難しいところだろう。
 
上述した羽地朝秀の日琉同祖を学問として体系化したのが伊波普猷であるのだが、彼にしても、東京帝大に籍を置き、将来を嘱望されていることで、羽地の日琉同祖を批判的に見るよりも、ある意味盲目的にそれに肉付けしたほうが都合が良かったのではないか、と私は見ている。もちろん勝手に。
 
話を琉球処分に戻す。小林よしのり氏の沖縄論の中で「琉球処分とは沖縄の廃藩置県のことである」として、「琉球王国はいきなり沖縄県になったわけではなく、まず琉球藩になった。尚泰(最後の琉球王)を「藩主」にして30万石の華族に列した」とあり、「県ではなく、まず藩にしたのは清朝からの反発が予想されたからである」としている。そこに「ん?」と思ってしまう。
 
まず、小林氏のいう「琉球処分とは沖縄の廃藩置県のことである」については、半分はそうだと思うが、あとの半分は・・・。という感じです。
 
琉球処分は二段階の手順で行われている。まず最初は琉球王尚泰を上京させて琉球藩の藩王とし、30万石の華族に列した。その数年後に松田道之処分官が警察を伴い、沖縄県の設置を宣言し認めさせた。これらを総括して「琉球処分」という。
 
 
>「琉球王国はいきなり沖縄県になったわけではなく、まず琉球藩になった。尚泰(最後の琉球王)を「藩主」にして30万石の華族に列した」
 
 :この言い回しは、沖縄以外の「廃藩置県」とシンクロさせて論じている気配がする。沖縄以外では、例えば薩摩藩や長州藩を廃して県を設置している。そのような流れで沖縄も遅ればせながら、とりあえず藩にして、その後に沖縄県に移行したと見ているようだ。それは大きな間違いだと思う。その前に完全な間違いとして尚泰を「藩主」にしたのではなく、「藩王」としたということ。ここは明確にしておきたい。
 
なぜ、他の廃藩置県と違うかというと、たしかに時系列で見れば小林氏が言うように沖縄以外の廃藩置県と数年違いで実施されたと見える。しかしそれは間違いだろう。まず『尚泰を上京させて琉球藩を置いて藩王にした』とするのがポイントでしょう。なぜ藩主ではなく藩王なのか?ということ。
 
ここに着目すれば、おのずと見えてくる。琉球王国は17世紀初頭から薩摩藩の従属国となった。それ以前から支那に対して冊封関係にあった。「日清両属」ということね。それが、明治維新で崩れたんだな。そう「廃藩置県」によって薩摩藩が消滅したんだ。その時点で薩摩藩と琉球の関係は断絶したことになる。たしかに徳川幕府に対して「江戸上り」と称するような朝貢的なこともあったようだが、琉球の実質的な支配に幕府は関係していない。あくまで薩摩と琉球の関係の中で、幕府との関係があったに過ぎない。
 
明治政府としてみれば、薩摩との関係が消滅した琉球という国に対して他の地域と同様に廃藩置県ができると考えたとは到底思えない。それよりも当時の国際社会の中で列強によるアジア進出から日本を守るためにはどうすればよいか、を考えたとき、ペリーが浦賀に来る前に、琉球にも立ち寄ったことなどから見ても、琉球を足掛かりにしてのアジア(日本)進出を阻止することが念頭に置かれていたと理解したほうがよい。もちろん論ずるまでもなく、清国に対して早急に日本国と琉球の関係を明確にしておく必要もあった。
 
そのためには、薩摩との関係が消滅した琉球に対して「日本国家との冊封関係」に置くことが喫緊の問題だと考えたとするほうが自然だ。つまり明治天皇と琉球王の間に中華秩序のような君主と臣下の関係を構築したかった。そのために「琉球藩」という「国名」を与えて尚泰を藩王にし、30万石の華族と同じ序列としたと見る。廃藩置県の「藩」と琉球藩の「藩」は似て非なるものということだと思うんだけどね。
 
次の小林氏の
 
>「県ではなく、まず藩にしたのは清朝からの反発が予想されたからである」
 
 :上述したとおり、時系列で見ればそのように解釈できるが、ちょっと違和感がある。「琉球藩」から沖縄県に移行することに対して、ある一つの意志が働いていたと解するのには無理があるようにおもいます。「琉球藩」とした後に「沖縄県」となるまで7年の歳月を要した。最初から沖縄県とする意志の下での施策であるなら7年もかける理由がない。一刻も早く国境を画定し、アジアに進出する列強に対して、発表したほうがいいからね。でも7年かかった。そこに「藩」とした頃には「県」にする意志はなかったと縁側は見ている。当然、清朝からの反発が予想されたからではないと思う。
 
「琉球藩」から「沖縄県」の設置に至るまでの過程はわかりません。<(_ _)> だって専門家でもないし、上に書いたものだって私の勝手な解釈ですからね。
 
あえて言えば、当時から大陸への野望を持っていた米国の動きをけん制するためとも思える。恵隆之介氏が言っていたが、沖縄の駐留米軍の最初はペリーが来琉した当時に遡るとのこと。大陸への足掛かりとしてこれほど好立地な島はないからね。
 
また、当時の琉球属宮古人が台湾で殺された事件を契機にして、清国が化外の地とした台湾の併合も視野に入れれば、日本と台湾の中間に日清両属の「琉球藩」があることは明治政府にとって不都合この上ないことだったのかもしれない。そんなこんなで(何だそりゃ?)沖縄県として完全に日本国の領土として組み込むことが最善との結論に達するまでに琉球藩としてから7年の歳月が流れたということかな。
 
思いっきり恣意的な見方だがそれが「琉球処分」ということで理解してください。<(_ _)>(無視してくれてもかまいませんが・・・・・)