慰霊の日(沖縄戦の組織的戦闘終結日)の翌日の琉球新報に興味深い記事が載っ

た。最近の地元紙の異常報道は、反日団体の機関紙を彷彿させるものだっただけに

特に目立った。

首相に「靖国参拝を」 仲宗根遺族連合会長

県遺族連合会の仲宗根義尚会長は二十三日、糸満市摩文仁で行われた「沖縄全戦

没者追悼式」の追悼のことばで福田康夫首相に「早急に靖国神社を参拝され、感謝の

誠を捧げられ世界恒久平和を祈願してくださいますよう強くお願い申し上げる」と求めた

「小泉元総理は参拝し、諸霊や遺族、国民から感謝された。安倍前総理は参拝しなか

った。残念でならない」と強調した。

う~ん、沖縄の新聞がベタ記事とはいえ載せましたか。遺族連合会は毎年首相の靖国

参拝を要請してるという話は聞いていたが記事を見たのは初めてですね。

正直驚きです。

そして、最も興味深い記事がこれ。

激しい戦況克明に 永岡隊記録小冊子に

沖縄戦当時、主に首里在住の教師や行政職員を中心に編成された「沖縄特設警備

二二三中隊」(俗称:永岡隊)。当時、太平山安国寺の住職でもあった永岡敬淳隊長の

孫婿・永岡理秀住職らが、同隊の召集から永岡隊長が自決するまでの記録を記した

小冊子をまとめ、安国寺で二十三日午前に行われた慰霊祭で配布した。編纂した

讃井正美さんによると、同隊員は約二百人おり、生き残ったのはわずか四十数人だっ

たという。讃井さんは「同隊は三つの現地徴用部隊の中でも、シュガーローフや弁ヶ嶽

(那覇市内)など激戦地にいた。現地部隊の手記をまとめるのはあまり例がない」と話

す。小冊子は、県が保管していた同隊生き残りの故・仲地喜俊さんら二人の手記と、

看護要員として従軍した翁長安子さんの手記を基にまとめた。激しい戦況や米軍の

馬乗り攻撃などが克明に記されている。沖縄戦当時、十五歳だった翁長さんは「『君

たちは若い。死んではいけない。武器を捨てて壕を出なさい』との隊長の一言で、今ま

で生かされてきた」と語った。永岡住職は「戦争は絶対にしてはいけない。人々の記憶

が薄れゆく中、平和を発信したいと小冊子を発行した」と願いを込めた。

私がここで想起するのは、旧日本軍はわが身かわいさで住民を壕から追い出した

という話。しかし上の記事中の話はあきらかに趣を異にする。そもそも壕とは防空壕

のことだと思うのだが、艦砲射撃や空爆、艦載機からの機銃掃射などの攻撃からは

避難場所として最適だったのだろう。しかし、米軍が上陸して地上戦が繰り広げられて

から壕は最適な避難場所足り得たのか?という疑問がわく。上の記事にもあるように

米軍は「馬乗り攻撃」つまり壕の外から手榴弾やバズーカ砲などで、壕の入り口から

攻撃し、壕内壁や壕天井を破壊してから火炎放射器で皆殺しという残忍な手法をとっ

たようである。そのような戦況で壕が安心できる場だったとはいえないだろう。とすると

沖縄の地元紙が悪の軍団としたい旧日本軍が住民を壕から追い出したのは、我が身

かわいさからなのか?それとも、住民の生命を大事にしたいがためなのか?断言でき

ないのではないだろうか。もちろん、地元紙はなにがなんでも旧日本軍を「悪」にしたい

ようであるが・・。(本音は現在の日本軍たる自衛隊も「悪」にしたいようである)

私には当時の戦闘がどのようなものだったのか想像できないが、少なくとも、「日本軍

がいたから沖縄に米軍がきた」は、でたらめであることが米国公文書から明らかである

。日本軍がいようがいまいが沖縄を占領することはずっと前に決定していたようであ

る。(沖縄戦の数年前から沖縄占領の青写真はできていて、将校クラスにはその旨模

擬トレーニングがなされていた)集団自決だって日本軍がいたから起きたのではない。

また、未曾有の悲惨な戦闘と言われた沖縄戦のさなか、米軍から食料をもらったり、投

降を呼びかける者をスパイと断定し殺害する行為を非難できるのか?とも考える。

話を戻すが、上の記事中の翁長安子さんは、「『君たちは若い。死んではいけない。武

器を捨てて壕を出なさい』との隊長の一言で、今まで生かされてきた」と仰っている以上

壕追い出しを否定的に見るだけでは沖縄戦の本当の姿は見えてこないのではないだ

ろうか。


追記:「永岡隊」の小冊子500円也で購入してきました。購入先は那覇市首里
    の安国寺。ついでに当時の新聞記事のコピーまでいただいちゃいました。