六月に入り、最近遅ればせながら梅雨らしくなりました。そろそろ梅雨明けだと思った矢先でしたね。「なんで今頃?」などと皆さんもそう感じたんじゃないですか。

  六月といえば、沖縄の学校では恒例の「平和学習」なるものが行われております。これは、昭和二十年六月二十三日に牛島司令長官(陸軍大将)が自決されたのではないかとされていることから「慰霊の日」として県内の学校・官公庁が休みとなり、多くの戦没者に対し慰霊の気持ちを表す日と定められており、それに合わせる格好で行われているんですね。

 まぁ、縁側は、個人的には殊更強調しての「平和学習」というものは無意味だと思っているので、それには否定的なんです。

  例えば、オーソドックスな「平和学習」といえば、近所で沖縄戦を「体験」したじーさん、ばーさんを学校に呼んで、子供たちの前で、悲惨な話をするというもの。当時の苦労話なら許せますが、悲惨な出来事を今を生きる子供たちに強制性をもって教え込むことが「平和教育」となっている。まったく無意味だし、というより逆効果ではないか?

  「平和学習」イコール「戦争絶対反対」となる。これでは逆効果でしかない。もちろん縁側のように出来の悪いガキは先生のいうこと聞きゃしないので洗脳されずにすみますが、マジメに取り組む子は辺野古に行き、翁長知事閣下に投票するバカになってしまうのです。そう、バカになったのが今現在の沖縄県民です。バカが多いから翁長閣下は当選できたのですからね。世代間の差はあるものの、ノータリンが多いことには変わりない。

 前にもエントリーしたけど、小学生の子に人が殺しあうことを言って聞かせることは正しいことなのか?という問いを誰もしない。多くの一般住民を巻き込んでの陸上戦は国内では唯一ですから、何か伝えたいという気持ちは、わからんでもないが、年端もいかない子供に「顔を突き合わせての殺し合い」の話をしていいのか・・・大いに疑問だな。というより縁側は否定します。

 あとね、「戦争体験」ということですが、戦時中の事実関係がはっきりしている年齢が例えば十五~六歳くらいとすると、現在の年齢は、八十代の後半ということになる。これ最低ライン。いちおう暇な人が多いでしょうし、必要とされているという喜びは何物にもかえがたいでしょう。ですから中には七十代で幼児だった方でも呼ばれれば行く。話す。そして、沖縄人の特徴のひとつである大袈裟な物言いをするでしょう。子供たちが恐怖におののくくらいのことを話す。意味あるんか? 辺野古に行く一般のじーさん、ばーさんも活動家の連中に必要とされている気がして足しげく通ってるんだろう。「孤独」に連帯感は、真夏のビールより美味なのだろう。

 縁側は、じーさん、ばーさんらから話を聞くことを否定はしない。ですが、それを学校でやることに違和感があるということ。教職員組合はこの時期はとにかく子供たちを洗脳しようと躍起になります。話す内容も殺し殺される話よりも、いかに生き延びたか、食糧はどうしていたのか、戦前はどうだったのか、戦後はどう変わったのか、という内容ならば全然いい。悲惨過ぎる話は逆効果です。お願いだからやめてください。

 ちなみに、米軍に原爆を投下された広島市と長崎市でも「平和学習」はやってるようです。

 ただ、沖縄と違うのが、広島市などは、通年学習なんですね。「この時期」に限定しておりません。被爆者の方を呼んで話を聞くというスタイルは同じようです。長崎市も広島とだいたい同じような取組をしていて、もちろん教職員組合などがネガティブにネガティブに見る子の育成に余念がないのは沖縄と同じでしょう。

  沖縄と広島・長崎の「平和」についての決定的な違いは、沖縄は「慰霊の日」を祭日にして、官公庁や学校が休み。広島市・長崎市もたしか同様に官公庁が休みだったと記憶してる(あやふやです)が、学校に関しては違います。そう八月は夏休み期間中ですので、もともと休みですが、「登校日」となっている。もちろん教師も登校します。この違いがわかりますか?沖縄の慰霊の日は、一部の人を除いて、「単なる祭日」。子供たちも大人も行楽地にGO!「戦争終結の日?ああ、そんな感じの日だよな」・・・。休みにする必要はないはずだ!!!

 ちなみに縁側は、毎年早朝に、護国神社にお参りしてきます。誰もいないほうが落ち着いてていいですからね。

 辺野古の乞食どもはどうしてるのでしょうか・・。彼らは唯物論者でしょうから、神社仏閣へ足を運ぶということはしないんでしょうね。

 「平和学習」をする側の連中が、ノータリン沖縄県民ですから、とにかく無駄な学習であり、逆効果しか生まないということだ。そんなものやめておけ!