ここ数日、寝つきが悪い。うるま市の事件のせいだ。あまり考えないようにするのだが、ついアマタをよぎる。

  前のエントリーで、日本人には民主主義は合わないと書いた。実際に合わないのですが、こんな声も聞こえてくる。「今現在、日本は民主主義国家じゃねーか!お前バカか?」というもの。

  日本は民主主義国家ではありません。これは民主主義の誤解でしょう。「民主」というくらいですから、国家の主は国民ということです。そこは共通認識でいいよな?

  選挙で我々の代表を決め、議会で税金の使い途を決め、外国との条約なども代行してもらってる。いわゆる関節民主制というやつだな。うまく機能してるようだから民主主義だという人もいるだろう。それはそれで間違いではない。もちろん民主主義的でしょう。でもそれは一部でしかない。それをもって民主主義だと言い張るのは無理がある。

  国家権力にはたしか大きく分けて三つあったよな。そう、司法権、立法権、行政権の三つだ。民主政治の上で重要な権力ですが、三権が独立してその権力を行使できることから、三権分立といってるようだ。なんか社会の授業みたいね<m(__)m>

  わが国でも三権が独立してますよ、といちおう学校では習ったのですが、首相公選制度もない、もちろん大統領制でもない我が国では実は二権分立でしかない。行政(内閣)と立法(国会)の権力は、単独政権であっても、連立政権であっても、当該政党に集権化する。現在は、自民党と公明党の連立政権ですから、この二権はこれらの政党の手中にある。

  米国なんかは、その点大統領制を敷いているから、きっちり三権が分立してます。大統領(行政)、議会(立法)、連邦裁判所(司法)という具合だ。それに大統領には議会に対して拒否権もある。議会で成立させた法律への署名拒否だな。あと、大統領が議会に「こんな法律作れ!」と指示できる。もちろん議会側(立法側)にも拒否(無視)できる権利はある。では司法はというと、独立してるだけでなく、連邦裁判所の裁判官(判事)は大統領が任命し、議会が同意しなきゃならん。権力の分立がはっきりしてる。

  前置きが長くなりましたが、ってもういっぱいいっぱいでちゅ、疲れた"(-""-)"

 前のエントリーの地位協定に触れたとこで日本は民主主義に合わない。と書いた。
 それは、司法を見れば一目瞭然でしょう。
 前エントリーでも書いたが、世界最先端の民主主義国家である米国なんか、証拠あり、自供あり、科学的根拠あり、目撃者ありと誰がどう見ても犯人なのに、無罪がでるケースがある。事務手続きの不備だよ。あるいは違法性の高い捜査が少しでもあった場合もね。LA市警で白人警官数人が黒人青年をめった打ちにしたことから違法捜査が明るみになったこと記憶してる人も多いはず。警察の捜査が法に少しでも抵触してたらアウト。いくら証拠が正確でもアウト。日本は今でも可視化がどーだとかいってるわけだ。よくハリウッド映画なんかで、逮捕された者が「弁護士呼んでくれ」なんて言うね。日本でもそれはできるけど、ほとんどが国選でしょう。

 民主主義を標榜するうえで最も大事なことは「国民の権利」。日本国憲法でも13条で立法や国政の上で最大限尊重される、とある。公共のなんちゃらとか入ってるけどね。では我々はそれを最大限行使してるでしょうか?

 例えば、カレーに毒入れて何人か忘れたけど死亡させたとして林という女性が死刑判決を受け確定していますね。あれね、状況証拠だけですよ。裁判官も「この女以外に毒入れることのできるのいないもん」と決めた。日本では、「当然だ」とか、「とっとと死刑にしろ」とかの意見が多くでますが、米国で同じ事件が起きたとして死刑判決が出るでしょうか?状況証拠だけ、目撃者なし、毒物も被告のものと断定できない。それで死刑にできるのか。大いに疑問であります。私見ですが米国なら無罪かもしれない。

 日本では、マスコミの報道でもそうですが、逮捕イコール犯罪者という空気を作ってしまう。実は、これこそが民主主義国家ではない証拠。だって容疑者は日本国家の主(あるじ)ですよ。犯罪者ではない主権者なのです。しかし、マスコミの報道姿勢を受けて巷間では「あれが犯人」と断定してしまう。これは警察情報からマスコミが流す報道からくるのですが、警察は「こいつがホンボシ」として捜査する。当然、公判に耐えうる証拠を見つけてくる。それが時には証拠ねつ造などで冤罪を生むわけだけど。

  刑が確定するまでは、その被告は主権者の一人なのです。ですから、被告は拘束される以外は我々と同じ主権者で様々な権利を有している。ここを理解しない限り、米国並みの民主主義には近づけない。

  拘束しているのは警察(行政権)であり、検察(行政権)であります。その国家権力に対抗するために弁護士がつく。そして司法の場で被告の主権者たる立場を守る戦いが繰り広げられるわけ。これはオウム事件でも同じ。我々はとにかく麻原を死刑に!という空気をつくることとそれが達成されることに興味が集中したが、主権者が拘束され、尋問され不利益を被っていないかなどはアタマにない。非民主主義的ということ。

 司法の場では、検察という行政側が被告を犯罪者にするために様々な証拠を提出する。証拠調べというやつだな。その証拠がどこからチェックしても正確な証拠か調べる。弁護士は証拠の信ぴょう性を疑い検察のあら探しをする。それを最終的には裁判官が判断するのですが、最近では裁判員制度で国民が直接裁判にかけるようになってますが、本来の趣旨としては、主権者たる被告の権利を守る意味がある。しかし実際はそのような精神状態ではなく、「公正な目」で裁くべきだと思っている。これも勘違いだ。公正な目を持つではなく、被告の主権者たる権利を行政(検察)が侵害していないかをチェックしなければならない。つまり、被告に寄り添い、被告側に立って、行政(検察)が犯罪者にしたがって提出してる証拠を吟味しなければならないのです。

 ですから、マスコミ垂れ流す恣意的な情報に左右されてはいけないし、あってはならない。

 上で書いたのが「民主主義」の一例なのですが、こと犯罪に関して我々日本人は時代劇などで洗脳されている。遠山の金さんなんか、おとり捜査して、潜入捜査して、大捕り物で拘束して、お白洲で尋問して、判決を言い渡してます。これは、警察(行政)と検察(行政)と裁判(司法)をたった一人でやってるわけ。それを拍手喝さいで視てるわけですからね、小さい頃から。水戸黄門だってそう。天下の副将軍かなんかしらんが、全国津々浦々に赴き、巨悪を成敗してます。これは東京地検特捜部の仕事と司法両方をあのじーさん一人でこなしてるわけですよ。さて我々に民主主義って合いますか?

  林死刑囚を助ける運動が安保法制のときの運動並みに起きますか?それないでしょう。「悪党なんだからいいんだよ」ということでポイ。

 冤罪などでお年を召されてから無罪になった人が身内ならどうでしょう。今までどれだけの冤罪があったのか・・・・なんて考えると恐ろしくなります。これは、カタチだけ民主主義を装って実は、民主主義でもなんでもない我が国の在り方の問題。民主主義国家を目指すならそのように教育しなければならないのに、それをしてないんだもの。もっと言えば、我々にはこのような感性というのか感覚は難しいと思うぞ。合わないと思うぞ。

 だったら何がいいんだ?と問われてもそれは困るんだけどね。とりあえず現在の中途半端な状態はどちらにしてもよくないでしょう。