「たかじんのそこまで言って委員会」を見てて思ったことを少しだけ。


   和歌山のカレー毒物殺人事件で死刑判決が確定している林真須美死刑囚についてですが、番組内でも言っていたのだが、もし状況証拠だけでの死刑判決であるのなら、これは無理がある、と思います。

   もしこの件で死刑執行の書類にサインできる法務大臣がでてくるとすれば、これはもう民主主義国家の看板を外さなければならないでしょう。

   世間では政治についての話題が多く、地元の琉球新報などでも、辺野古の基地建設工事について「安倍政権は民主主義否定」や、「民意は辺野古反対であり、民主主義国家であるなら、辺野古への移設を断念し、普天間を即時閉鎖するべきだ」などと民主主義という言葉が使われている。それについては、別の機会に触れたいと思いますが、実のところ、前述した裁判などに見られる非民主的な結果についてマスコミ等が声を上げないのはやはり民主主義について日頃から考えのない連中であることがわかる。

   死刑は刑が確定してから6ヶ月以内に執行しなければならないから、さっさと死刑執行しろ!などとはよく聞く話。これについては、再審請求や恩赦出願などの手続きが発生した場合、刑の執行はできないことになっているのですが、それを「無駄な再審請求をして刑の執行を妨害しているだけだ」などと、国民の側から批判が出ることに疑問を持たなければならない。いちおう付記すると、左翼活動家が支援している再審請求もあるのはある。

   前述したカレーに毒を入れて人を殺した事件ですが、犯人とされている林死刑囚の自白は取れてない。殺す動機もはっきりしてない。ヒ素は彼女の家にあった。事件で使われたヒ素と似たものらしい。でもそれすべてが、林死刑囚が犯人と見たほうが合理的だとするだけの状況証拠にすぎない。おそらくこいつが犯人だろう・・・。というだけです。これで死刑の執行ができるのでしょうか。

  というよりも、ここで縁側が言いたいのは、国家権力が状況証拠のみで我々と同じ日本国民を収監し、死刑判決を出し、刑を執行しようとしていることに恐怖しないのであれば(マスコミも取り上げないし)、国民主権はどこへ行ったのか?ということ。民主主義?全然違うでしょ。まさかワイドショーの論調に同調することが民主主義だなんていわないよな?

  例えば、殺人の容疑をかけられて警察に逮捕される。警察は行政機関ですね。調書がとられて検察に行く。検察が起訴して公判が始まる。検察も行政機関です。主権者たる容疑者の権利を守るための公判は裁判所で行われます。起訴した検察と容疑者を擁護する弁護士の対決となるのですが、裁判官が仕切ることになります。その裁判官は司法機関の人間ですね。ところが、判検交流などと裁判所と検察の人事交流があり、司法と行政が実は一体ではないのか・・など公正な裁判が行われているのかを疑問視しなければならなかったりする。これ大問題だと思うのですがね。

   裁判(公判)の本旨はというと、「おめーが犯人だ」と言ってる検察調書のあらさがし。検察が提出した書類に対して犯人とは断定できないことを証明する場が裁判所だといっても過言ではない。どんなに被告有利に見てあげても、どんなにひいき目に見ても被告が犯人と認めざるを得ない場合に「有罪判決」がでる。それが本来の裁判の在り方ですし、だから「疑わしきは罰せず」なのだと理解しております。ところが、日本の有罪率は99.9%なのでした。怖いですね~。

  民主主義国家では、国民が主権者です。その主権者が起訴されて、犯罪者とされる過程で、主権者として最大限尊重されなければおかしいし、それが当然です。裁判官は我々が、間接の間接のまた間接的に任命している。検察官も我々が間接の間接のまた間接的に任命しているから、彼らに任せておけばいいし、恣意的判断などないはずだ、などととマジでいえますか?ということです。地裁の判事に「この被告も間接的に私の任命権者だ」という意識はあるでしょうか?もしその意識が少しもないのなら、日本は間違っても民主主義国家ではあり得ないということです。

  いちおう裁判員制度ができて、判決と量刑について裁判官と共に審議することになっておりますが、裁判員に選ばれた人の考え方として、「検察は敵」という意識のほうが、間違いが少ないように思う。ワイドショーに感化されて、「こんな極悪非道な奴は死刑でいいよ」なんて考えは裁判員制度を有形無実化させてしまう恐れがある。

   カレー毒物殺人の死刑囚も、もし状況証拠のみなら無罪でなくてなぜ死刑なのか、「疑わしきは罰す」というのなら、世間のいう民主主義とは全く違うということになると思いますがねぇ。究極的には、真犯人を無罪にしてしまうリスクと無実の人を死刑にしてしまうリスク。さてどちらのリスクをとるか、ということだな。

  まぁ、近代の民主主義の考え方というのは、欧米からの輸入品ですから、日本型に改良したときに、まったく違うものになってしまった、ということなのかどうなのかわかりませんが、であるなら、学術的にも欧米から輸入された従来の民主主義の概念を変える必要があるのではないでしょうか。


   ちなみに言うと、琉球新報が辺野古移設を民主主義を破ることなどと、ほざいているが、それは民主主義とは関係ありませんから。百歩譲って「民主主義的」に言えば、次期県知事選挙で辺野古反対の候補者が当選しても、辺野古移設を止めることはできません。「民意」は安倍内閣に信託していることでクリア済み(T_T)/~~~

  それに、行政上の手続きを経ておりますから、どうしても止めたければ行政訴訟起こさなきゃだめだろう。でもそれも勝つ見込みはありません。なぜなら憲法上の「公共の福祉」にあたることと解釈されます。残念(^^♪


   まぁ、偉そうに言いたい放題しましたが、縁側は、民主主義って嫌いです。例えば選挙権。みんなに付与?だから嫌いです。「輸入品をそのまま有難がることに抵抗したい」が、本音かな。 

    追記: 民主主義といえば、最近の世界の情勢からいえば、イスラエルって、なんて民主主義的な国家なのだろうと思いますね。建前では三人の少年が拉致されて殺されたことで、ガザ地区を攻撃してますね。これは正に民主主義国の有り様です。日本にできますか?無理でしょう。不毛な憲法論議に終始し、進行形で拉致されている主権者を救出できずに三十年以上経過してるわけですから。民主主義の看板は下ろしたほうがいい。